川のアシアト 大河津分水の桜の歴史

ちょっと知っておくとより楽しめる大河津分水の桜の歴史をご紹介します!

想いが込められた大河津分水の桜

大河津分水工事 大河津分水の桜は、明治43(1910)年に初めて植えられたと言われています。 大河津分水が通水したのは、大正11(1922)年ですので、 完成する10年くらい前から、すでに桜の植樹が始まっていました。 この背景には、「大河津分水の偉業を後世に遺さなければならない」という 地域の方々の強く熱い想いがありました。
画像:大正時代の大河津分水掘削工事(出典:目で見る工事誌)

桜がピンチに!?

昔の大河津分水の桜 昭和2(1927)年に大河津分水では自在堰が陥没するという事態が発生しました。 これに伴う工事や、第二次世界大戦の影響で桜の伐採が行われ、 大河津分水の桜は絶滅の危機を迎えました。 そのたびに、当時の人たちは、桜を植え、守り伝え、そして、昭和20年代になると 新潟県随一と言われる桜の名所になりました。
画像:昔の大河津分水の桜(出典:目で見る工事誌)

大河津分水の桜の生みの親「田沢実入(みのり)」

桜を植えた田沢実入 大河津分水の建設にも貢献した人物であり、大河津分水の桜を守り伝えるために設立された 「信濃川大河津分水路保勝会」の初代会長でもあります。 明治43年に桜を植え始めた一人と言われており、 今日の大河津分水の桜の生みの親と言えます。 桜を守り育てた山宮半四郎(燕市名誉市民)との交流も深く、 山宮半四郎のアルバムには田沢実入の写真とともに 「信濃川分水工事の大恩人者」と記されています。
画像:桜を植えた田沢実入(出典:大河津分水双書第6巻)

大河津分水の桜の育ての親「山宮半四郎」

桜を育てた山宮半四郎 田沢実入とともに明治43年に桜を植え始めた一人と言われています。 大河津分水の建設が開始されると同時に、 この大事業を後世に伝えるべく、一帯の公園化を企画したり、 また、有志を募り私財を投じて桜の植樹を行ったり、 戦争で中断したおいらん道中を復活させたり、 今日の大河津分水の桜があるのは、 山宮半四郎のおかげといっても過言ではありません。 この功績を讃え、現在は燕市の名誉市民となっています。
画像:桜を育てた山宮半四郎(出典:大河津分水双書第6巻)

これからも桜を守り伝える!

桜の下枝処理 大河津分水の桜は植樹から80年以上が経過し、一部の桜は寿命がきて枯れてしまうなどしました。 田沢実入や山宮半四郎たちが残してくれた大河津分水の桜を絶やしてはならない、 そういった気持ちの有志が集まり「NPO法人分水さくらを守る会」を結成。 今も桜を守り伝える活動をしていまする。
画像:桜の下枝処理をする皆さん