川のアシアト 大河津分水(あらましバージョン)

奥が深い大河津分水は書き出すときりがないので(?!)ポイントを絞って紹介します。

大河津分水の初登場は江戸時代

本間屋数右衛門の墓 現存する資料では、享保年間(1716〜1736)に寺泊(現在の長岡市寺泊)の本間屋数右衛門が、江戸幕府に大河津分水の工事を請願したことが始まりです。その後も、子の数右衛門や星清五郎といった有志が繰り返し請願を行いますが、莫大な費用が掛かること、技術的に難しいことを理由に江戸幕府はこれを許可しませんでした。江戸時代の請願は、主に新田開発を目的にしたもので、請願者の出身地は信濃川の水害に苦しむ平野部の人々ではなく、信濃川流域外の海岸沿いや山地部の人々が多いです。
画像:長岡市寺泊照明寺にある本間屋数衛門の墓

ついに始まった大河津分水工事!?

第1次工事の計画 江戸時代後半になると、古川(現在の新潟市南区)の田澤与左衛門や保明新田(現在の田上町)の高橋健三など、治水を目的とした請願者が増えていきました。人々の私財を投じた請願活動が実を結び1870(明治3)年に明治政府による大河津分水開削工事が始まりました。国や地元の負担金などを合わせた工事費用は100万両。場所は現在の大河津分水と同じ位置でしたが、掘削する川幅は広いところで約100m、水量をコントロールする堰は石積みの堰で強度が弱いものでした。それでも通水まであとわずかとなったところで、外国人技術者が「待った」を掛けました。大河津分水への通水により新潟港は浅くなり使えなくなるという報告書を記したのです。これがきっかけとなり大河津分水工事は廃止されました。なお、この工事は「第一次工事」と呼ばれています。
画像:明治初めの大河津分水の計画(出典:信濃川大河津資料館展示図録)

越後平野史上最大最悪の水害「横田切れ」

横田切れの破堤箇所付近 大河津分水工事廃止後、明治政府は大河津分水の建設を諦め信濃川本川の堤防の嵩上げや拡幅工事を進めました。一方で、田澤実入や高橋竹之介など多くの人々が請願を繰り返しました。そんな中で発生したのが1896(明治29)年の「横田切れ」という大水害です。横田(現在の燕市)の堤防が切れたことにちなみ、こう呼ばれていますが、実際は信濃川や中ノ口川、西川、阿賀野川などの至る所で堤防が切れ、越後平野のほぼ全域が浸水しました。1ヶ月に及んだ浸水でチフスやコレラ、赤痢が蔓延。人々はその有様を「こもり水」「やまい地獄」と呼び、この地を去る人も多くいました。人々の暮らしに大きな被害を与えた大水害は、皮肉にも大河津分水の必要性を説く重要な水害にもなりました。
画像:横田切れの惨状を描いた絵(出典:信濃川大河津資料館展示図録)

200年の悲願!大河津分水工事開始

イギリスから輸入したスチームナビー 度重なる水害を受けて大河津分水の建設が再度議論されるようになり、1907(明治40)年に帝国議会で大河津分水工事の開始が決定、予備調査を経て1909(明治42)年に起工式が行われ、ついに大河津分水工事が始まりました。長さ約10km、川幅180m〜800mの分水路の開削と、日本一の水量を誇る暴れる信濃川の流量調節のための堰の建設。ドイツやイギリスなどから輸入した最新の掘削機械、延べ1000万人の従業者、そして人々の想い。地すべりや新潟特有の暑さと寒さに工事は困難を極めましたが、1922(大正11年)ついに大河津分水は通水しました。 なお、この工事は明治初めの第一次工事に対して「第二次工事」と呼ばれ、一般的な大河津分水工事とは、この工事のことを指しています。
画像:大型の掘削機械スチームナビー(出典:信濃川大河津資料館展示図録)

まさかの堰の陥没と新たな堰の建設

1931年完成の可動堰 通水から5年後の1927(大正2)年6月、大河津分水路に流れる水量を主にコントロールしていた自在堰が突如として陥没しました。これにより上流から流れてくる水は全て分水路へ流れ、下流の信濃川や中ノ口川、西川は干上がり、生活や農業に深刻な影響が生じました。 このような状況を復旧するために、陥没した自在堰に代わり建設されることになったのが可動堰です。また、度重なる洪水により堰の基礎部分が洗掘されたことが自在堰陥没の原因でしたので、分水路全体の川底が削られないよう6基の床留、床固の建設も行われました。 この工事は「補修工事」と呼ばれ、工事を指揮したのは宮本武之輔、工事の最高責任者が青山士でした。1931(昭和6)年に補修工事は完成。以来、大河津分水は越後平野を守り続けています。
画像:建設中の可動堰(出典:信濃川大河津資料館展示図録)

満身創痍の大河津分水

大河津分水路河口 大河津分水路にはものすごい量の洪水がものすごい勢いで流れます。その洪水のエネルギーにより川底の洗掘、堤防の浸食、堰などの施設の損傷など大きなダメージを受けてきました。また、より多くの洪水を安全に流すためには大河津分水の改良が欠かせませんでした。そこで、完成後も大河津分水の機能を維持するために様々な事業が行われてきました。1960年代の洗堰・可動堰の嵩上げ、1990(平成2)年のバッフルピアの建設、2000(平成12)年には洗堰の改築、2011(平成23)年には可動堰の改築も行われました。それでも大河津分水は大きな問題を抱えています。それは河口部の狭さと施設の老朽化です。大河津分水は今大きな局面を迎えています・・・。
画像:大河津分水路の河口