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かつての水害を伝える石碑、苦難の末に完成した用水施設など、 身近なところにある「水の記憶」を紹介します。

水のキオク 大河津分水周辺

1922(大正11)年に完成した洗堰。2000年に新洗堰へ切り替わり、現在は登録有形文化財として保存されています。
1931(昭和6)年に完成した可動堰。現在は新可動堰へと役目を引き継いでいます。設計者は土木技術者の宮本武之輔です。
信濃川本流へ流れる水量を調節。船の通り道の閘門や魚道観察室が併設されています。
2011年11月に通水した越後平野の新しい守護神。ラジアルゲート(円を描くように動く)としては日本最大級!
可動堰の完成を記念し1931年に建立されました。「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」「人類ノ為メ国ノ為メ」の言葉が刻まれています。
碑文には大河津分水工事の経緯が記されています。書は比田井天来で、書道を学ぶ人々が拓本を取りに来訪されることも。
裏面には大河津分水工事とその後の維持工事によって亡くなった100人の名前が刻まれています。今でも4月に慰霊祭が開かれます。
大河津分水に桜を植えた「田澤実入(みのり)」「山田卯之七」「山宮半四郎」を讃える石碑。1924(大正13)年に建立されました。
分水路河口に1931(昭和6)年に建設され、以来、分水路の川底の洗掘を防いでいます。上下流の水位差は5mあります。
第二床固の傷みが激しくなったこともあり、その機能を助けるために1972(昭和47)年に第二床固の下流に建設されました。
第二床固上に建設された突起物で、洪水の流れがぶつかることによりその勢いを弱め、川底の洗掘を防ぐ役割があります。
分水路の最下流に架かる橋で大河津分水路の開削に合わせて架けられました。現在の橋は2代目で1967(昭和42)年に完成したものです。


水のキオク 燕市周辺

1896(明治29)年の大水害「横田切れ」のときに、信濃川の堤防が切れた場所に建てられています。裏面には横田切れの惨状も。
横田切れの際に濁流にのみ込まれた神社。横田切れの惨状が描かれた絵が奉納されているほか、境内には恙虫(つつがむし)神社もあります。
泥沼の田んぼ「深田」の干拓のために、大河津分水路の掘削土砂を運び、積み上げたのがこの丘です。高さ4m程の丘が約1.5km続きます。
深田の干拓に大河津分水路の掘削土砂を利用しようと考え、内務省と交渉し、土砂置場となる土地を提供した森山一郎を讃える石碑です。
燕市分水地蔵堂の諏訪神社境内に建つ忠霊塔。設計者は旧可動堰設計者でもある宮本武之輔です。設計の経緯は宮本日記に記されています。


水のキオク 長岡市周辺

江戸時代に大河津分水工事を請願した本間屋数右衛門の墓。今でもわずかに「本間屋数右衛門」の文字が確認できます。
円上寺潟の干拓と島崎川の排水を目的に、大河津分水路の開削に合わせて掘られた長さ約1kmの水路トンネル。寺泊円上寺と日本海を結びます。
 
 

水のキオク 弥彦村周辺

1869(明治2)年に着手した大河津分水第一次工事の起工式の祭神が祀られています。弥彦神社向かって右側の末社の並びにあります。

水のキオク 新潟市西蒲区周辺

矢川の水を弥彦山系の下をくり抜いて直接日本海に排水する長さ約3kmの放水路。1939(昭和14)年完成し、楊枝潟の干拓が進みました。

水のキオク 加茂市周辺

信濃川の度重なる水害に苦しめられ、全村移転を決断した五反田の人々。その苦難と努力の歩みが記された石碑が堤防の切所付近にあります。