大河津分水に一生を捧げた「田沢実入(たざわみのり)」

大河津分水の実現に最も尽力した人と言えば、やはり「田沢実入」です。

幼少時代から大河津分水教育!?

田沢実入  田澤実入を語るには、その父親の田澤与一郎について触れなければなりません。古川村(現在の新潟市南区白根古川)の庄屋であった与一郎は、早くから大河津分水の建設の必要性を訴え、新発田藩や同郷の有志らと共に江戸幕府に大河津分水建設の請願を繰り返しました。その甲斐あってか1870(明治3)年に第一次大河津分水工事が始まり、与一郎は用弁係として工事に従事しました。この激動の最中、1852(嘉永5)年に生まれたのが田澤実入でした。父と共に請願活動を行い東京や京都を往来したほか、地元の新潟新聞に大河津分水の必要性を説いた論説を発表し、また、治水運動を展開する会社を創設するなど、父以上に精力的に大河津分水の必要性を訴え続けました。
画像:田澤実入(出典:信濃川大河津資料館展示図録)

信濃川治水論の発表

信濃川治水論続編  1881(明治14)年、29歳のときに大河津分水の必要性を説いた「信濃川治水論」を発表し、冊子に印刷して配布したほか、新聞記事にも掲載しました。また、翌年には大河津分水の建設運動を推進すべく「信濃川分水会社」を設立し、「信濃川治水論続編」を発表しました。

〜信濃川治水論の要約〜
水害を引き起こす原因は「人」にあるのであって、「水」にあるのではない。信濃川の恵みははかり知れない。しかし、その洪水による被害もまたはかりしれない。水害の原因の一つは森林の乱伐にあり、確かに政府も山林保護を重要視している。しかし、毎年のように水害は起きるのに、100年後の森林の回復を待つことなどできない。北越の人々よ、水害で家も土地も失い、洪水は天災だと考え、治水を行わないとはどういうことか。信濃川の水害を無くし、この地の衰退をくい止める方法は大河津分水以外にはない。確かに大河津分水の建設は容易ではない。費用も莫大だ。しかし、これまでの水害の被害を考えれば、無理ということはない。大河津分水の建設に最も重要なことは、人民の団結である。これこそ大河津分水事業の基礎である。人民の団結無くして大河津分水を請願することなどできない。北越の水害は、大河津分水を真剣に考えないことが原因である。だから、私は言うのだ。「水害を引き起こす原因は「人」にあるのであって、「水」にあるのではない。」と。
画像:信濃川治水論続編(出典:大河津分水双書資料編第2巻)

父の死、そして大河津分水を「つくる側」へ

田沢与一郎  1883(明治16)年、田沢実入は新潟県議会議員に初当選し、大河津分水実現のために東京へ請願に赴くなど精力的に動きました。そんな中、田沢実入のもとに、父、与一郎の病状が悪化し重体との電報が届きました。田沢実入は昼夜を問わず新潟を目指し、与一郎のもとへ辿り着きました。与一郎もまた実入を待ち続けていました。与一郎は「大河津分水工事再興の志を受け継ぎ、達成に努力せよ」との言葉を伝えたと言われています。実入との面会を果たした翌日、父与一郎は亡くなりました。
 大河津分水建設に向けて獅子奮迅する田沢実入でしたが、私財を投じての活動であったため衣食にも困るようになりました。そのためか、1886(明治19年)、新潟県議会議員を辞職し、新潟県土木課の職員となりました。しかし、大河津分水事業の達成を諦めたわけではありませんでした。
画像:田沢与一郎(出典:大河津分水双書資料編第4巻)

東京から新潟への発信

 その後、内務省へ入った田沢実入は、長野県や広島県、高知県など各地の土木行政を転々とします。そのような中、岐阜県第二課長であったときに、新潟県出身で帝国議会議員の大竹貫一が岐阜県庁を訪れます。大竹貫一は大河津分水実現の影の功労者と言われる人物で(その話は別の機会に)、明治29年の木曽川大水害の視察調査で岐阜県を訪れていたのです。大竹貫一の手記には「田沢氏不在」と記されていることから、残念ながら2人が面会することはなかった(?)ようですが、この岐阜県視察の目的の一つは田沢実入に会うためだったのかもしれません。その後、東京市土木部長となった際に、新潟新聞に大河津分水の必要性を説いた言葉を寄書しました。

〜大河津分水に就て新潟県民に告ぐ(要約)〜

信濃川の治水は江戸時代の享保年間より問題となり、田沢与一郎、上田幸助、高橋健三、鷲尾政直ら、大河津分水の必要性を説く人々が繰り返し幕府や明治政府に請願を繰り返した。明治2年にようやく工事が始まったが、明治7年には不幸にも事業が廃止されてしまった。その後、信濃川の堤防を強化する工事が行われているが、明治32年の完成予定を超えてなお、現在も工事をしている。しかも明治18年の洪水を基準に川幅や堤防高を決めているようだが、その洪水を上回る洪水は何度起きたことか。このような状況から、当局では再び大河津分水の建設を計画しているらしいが、財政困難な今は、仮に内務省が提案したとしても大蔵省が素直に聞き入れるとは考えにくい。それに、衆議院、貴族院もあり、大河津分水の建設はこの3関門を通過しなければならない。何もしないでなりゆきに任せている場合ではない。この機を逃してはならない。北越水害地の人民が数百年も渇望し、多くの先人たちが身を挺し、私財を投じ、心血を注ぎながらも亡くなっていった。新潟県民よ今こそ奮励協力し大河津分水事業を議会に提出させようではないか。私の力は僅かなものだが、せめて諸氏の手助けをしたい。新潟県民のために、黙っていることはできない・・・。

大河津分水工事を指揮

工事前の分水路河口付近  1907(明治40)年、越後平野で暮らす人々の念願であった大河津分水工事が決定し、明治42年から工事が始まりました。田沢実入は内務省の技師として大河津分水工事に従事し、地蔵堂工場や落水工場、弥彦砕石工場などの主任となり、大河津分水が通水した翌年の1923(大正12)年に内務省を辞職しました。年は71才。通水の瞬間をどのような心境で見届けたのでしょうか。
画像:工事前の分水路河口付近(出典:目で見る工事誌)

大河津分水に桜を植える

大河津分水路河口  大河津分水の通水間もない大正13年、大河津分水での桜の育成を目的に設立された「信濃川大河津分水保勝会」の初代会長となり、大河津分水公園周辺の桜を育てました。燕市名誉市民で大河津分水の桜の植樹に尽力した山宮半四郎も田沢実入の事を慕い、「田沢翁が来てくれた」と書かれた手記や実入の写真が山宮家に伝わっています。また、大河津分水公園内には大正13年に桜の碑が建てられ、田沢実入は次の歌を刻んでいます。

〜桜の碑に刻まれた田沢実入の短歌〜
 いく千春 かはらでにほへ 桜花
 植えにし人は よし散りぬとも
 敷島の 日本こころの 佐久良花
 堤とと裳に よ露つよもか那
 大正13年10月 田沢実入

画像:桜の碑

大河津分水の偉業を後世に伝える

信濃川改良工事沿革誌 度重なる請願活動の中で、膨大な資料を集めた田沢実入。実は、数千点に及ぶその資料を大切に保管し、弥彦神社に奉納していました。また、大河津分水建設のあゆみを記した「信濃川改良工事沿革誌」も書き上げています。この沿革史には、本間屋数右衛門の請願内容から各時代の請願者の名前、水害の起きた年、被害の内容、堤防が切れた場所など、事細かに記されています。田沢実入がいなければ、今、こうしてこの文章を書くこともありませんし、何と言っても大河津分水を後世に伝えることができなかったと言えます。その田沢実入の目に見えていたのは、水害に苦しむ越後の人々であったことは言うまでもありません。
画像:信濃川改良工事沿革誌(出典:信濃川大河津資料館展示図録)

田沢実入の年表

         
できごと
1852(嘉永5)年 田沢実入生まれる。
1868(明治元)年 5月に信濃川大洪水。20日間にわたり越後平野は浸水した。追い打ちを掛けるように北越戊辰戦争が発生。8月になり戦争が終結に向かい始めたのを機に父与一郎や有志らは大河津分水工事の開始を盛んに新政府等に請願した。
1869(明治2)年 4月17日、大河津分水工事を全額官費をもって着工することを政府が布告。
1869(明治2)年 9月17日、政府が財政の逼迫等により分水工事延期を命令。これを受けて父与一郎ら有志は資金の調整に奔走。
1870(明治3)年 5月17日、大河津分水工事(第一次工事)着工。
1870年(明治3) 7月7日、大河津分水工事(第一次工事)起工式。
1875年(明治8) 大河津分水工事(第一次工事)廃止。
1879年(明治12) 中蒲原郡書記拝命、勧業博覧会出品係を命ぜられる。
1881年(明治14) 中蒲原郡書記辞職。「信濃川治水論」発表。
1882年(明治15) 信濃川分水会社創設(のち信濃川治水会社に改める)。「信濃川治水論続編」発表。
1883年(明治16) 新潟県議会議員となる。
1886年(明治19) 新潟県議会議員辞職。県庁に勤める。
1893年(明治26) 内務省に勤める(広島土木監督署)。
1896年(明治29) 岐阜県第二課長。木曽三川大水害。新潟県では横田切れ発生。大竹貫一木曽三川水害視察。
1900年(明治33) 東京市土木部長。
1901年(明治34) 「大河津分水に就いて新潟県民に告ぐ」を新聞に発表。
1907年(明治40) 大河津分水工事(第二次工事)達工。この頃に大河津分水工事の信濃川落水主任嘱託。
1922年(大正11) 8月25日、大河津分水通水。
1923年(大正12) 内務省辞職。
1924年(大正13) 大河津分水工事(第二次工事)竣功式。
1927年(昭和2) 大河津分水で自在堰が陥没。代わりの可動堰等を建設するための補修工事着手。
1928年(昭和3) 4月2日、逝去。76才。